『いちご同盟』を読んで1

僕は、苺が嫌いである。あの、血のような毒々しく輝く色が苦手だ。だから、僕はこの本を今までずっと本棚の片隅に隠していた。昨日、何故かジェームズ・クネンの『いちご白書』を思い出し、「ああ、そういえば三田誠広いちご同盟なんて本があったなあ」と思った。クネンのほうは確か、アメリカの学生運動の記録のようなものだったと思い出し、三田誠広のも学生運動に関する小説かなと思って、手に取った。

蛇足であるが、三田誠広は我らが母校の先輩である。たしか、山崎博昭や竹中均と同期であったと記憶している。山崎は樺美智子以来二人目の学生運動による死者であること(と僕の高校の先輩であること)で、有名である。蛇足の蛇足であるが、以前、山崎をネットで検索したことがある。その時、10・8山崎博昭プロジェクトというものを見つけた。その賛同者のところには、三田の名前とともに高校の時のある教師の名前も連なっていたのを覚えている。まあ、このことは、60年安保や、全共闘運動について、今度語ろうと考えているので、置いておこう。その時に、奥浩平や高野悦子についても触れたい。

 

上のように述べたのは、三田誠広について語る際には、学生運動に触れないわけにはいかないと思ったからである。三田は48年生まれだから、63年に高校入学67年に早稲田に入学だと思う。(きちんと調べたわけではないので、推測です。)ちなみに、三田が芥川賞を受賞した小説『僕って何』は学生運動をもろに描いたものである。この世代の文筆家に共通であるが、三田の思考のプロセスには、常に根柢に学生運動があるのではないかと推測される。実際、『いちご同盟』の中でも、学生運動への言及が一部存在する。主人公良一の父は酩酊した状態で良一にこう述べる。

「良一。お前にもいつか、わかるだろうがな。長く生きていると、大切な人間が、次々に死んでいく。それは仕方のないことなんだ」「そしてな、良一。大人になり、中年になるにつれて、夢が、一つ一つ、消えていく。人間は、そのことにも耐えなければならないんだ」「今夜は、学生時代の友だちと飲んでたんだ」「いっしょにデモに行った仲間だ。かつての仲間のうち、一人は内ゲバで殺され、もう一人は自殺した。生き残ったやつらが、過去を懐かしんで、センチメンタルになって酒を飲む。中年というのは、醜いものだ。良一、わかるか」「いやお前なんかに、わかってたまるか」「おれがつまらん仕事に手を染めるようになったのも、お前たちを食わせるためだ。この家を建てるために、おれがどれほど心を痛め、自己嫌悪にさいなまれたか⋯⋯。くそっ、こんな家なんか」

 これは、三田の心情を良一の父親に語らしたのではないかと思った。共に、活動した仲間が死んでいたりするのに、自分だけが、こんなバカげた家なんか建て(小説なんか書いて)、のうのうといきていていいのか。そんな思いであろうか。このセンチメンタルな感情が醜い。潔さからは遠く離れている。実は、良一の父親は過去の呪縛から一生解き放たれることはないにも関わらず、過去を捨てたように振る舞い、時々、過去の郷愁に浸る。

ここで、夢が一つ一つ消えていくという。森田童子の『みんな夢でありました』という曲はこう歌う。

あの時代は何だったのですか

あのときめきは何だったのですか

みんな夢でありました

みんな夢でありました

悲しいほどにありのままの君とぼくがここにいる

 この歌は、学生運動の敗北をうたったものであると考えられるが、そこで、登場する「夢」という語に注目したい。夢というものは醒めて初めて「ああ、これは夢だったのか」と気づく。学生運動の熱気が冷めきった後、何故、あれほどまでに、熱く語り合い、活動することができたのかという問いが残る。表面的には、社会への憤懣や不条理から、「社会をよりよくしよう」という信念であったと思われるが、それだけでは、何故あれほど熱い世界がそこにあったかを説明できない。この熱さを「そういう時代であった」と語り、後は口をつぐむ人が多くいることは知っているが、どういう作用がそこに働いていたかを分析することは今日的にも意味のあることである。それは各人の空想の作用であるかもしれない。つまり、想像力である。実は実際の社会なんてものは何処にも存在しないのかもしれない。社会は各人の想像により捉えることしかできない。そして、社会への想像は、他者への想像に下支えされている。つまり、他者が社会をどのように想像し受容しているか、このこと自体を想像し、自己も社会を想像するというプロセスとでもいおうか。乱暴なやり方かもしれないが、この時代は戦後民主主義という枠組みの限界が見え隠れした時代であったかもしれない。しかし、未来社会を想像し、社会は良くなると思い込んでいるとすると、「知的エリートである自分が何かをしなければならない」という方向に行動が向かったという理論は必ずしも的外れではないかと思う。しかし、そういった純粋な思い?がセクト同士の対立、内ゲバへと発展したのはなぜなんだろうかという疑問も残るが。(僕自身、まだまだ勉強不足でなんとも言えない)また、最近読んだ本の中では、66年に東大に入学した世代である小坂修平の『思想としての全共闘世代』は全共闘について語るのみでなく、その時代に生きた若者のその後の人生を含めて総括するように語る、面白い本であった。(機会があればもっと詳しく論じたい)

 

僕は、この投稿で、『いちご同盟』を読んだ感想を書くつもりだったが、なにやら支離滅裂な緒論となってしまった。だから、本書の感想は稿を改めることにして、この投稿表題に「1」を付けておく。最後に述べておくが、『いちご同盟』は表面的には学生運動と関係ない話として読めるものである。しかし、三田の小説の感想を書くにあたり、筆がかってに学生運動のほうへむかっていってしまったのである。

 

https://www.amazon.co.jp/いちご同盟-集英社文庫-三田-誠広/dp/4087497577/ref=sr_1_1?hvadid=386478559857&hvdev=c&jp-ad-ap=0&keywords=%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%B4%E5%90%8C%E7%9B%9F&qid=1580643544&sr=8-1

 

唐十郎『ビニールの城』を見て

三か月くらい前に書いた文章ですが、挙げておきます。


先日、唐十郎のビニールの城を見ました。
劇中でなんどかはっとさせられるセリフがありましたので、今回はそれについておもったことを述べていきたいと思います。

やはり、唐さんの脚本はセリフが良い。非常に良い。演劇とは哲学の3D化なんだと思う。哲学が、紙面という二次元の中であれやこれを論じているとすれば、唐さんの演劇は舞台という三次元空間で物事を論じようとしている。
今回の演劇でも毎回、唐の演劇を見て感じさせられる、人と人とのかかわりの困難さのようなものを見ることが出来た。しかし、人は敢えてその困難さを選択する存在でもある。即ち、人は人と関わらずして人となることはできないと言うことができよう。全ての演劇(一人演劇でさえ)は人と人について三次元的に論じているといえる。三次元というのは空間的な問題だけに留まらない。つまり、演技する人と観劇する人という、役者のいる舞台をこえた、小屋という役者と観劇者を包括する次元が存在することを指す。こういった三次元空間から、人と人との関係を描くことは、分厚い哲学書が長々と論じることよりも多くのことを表象することができ、奥が深いものである。しかし、演劇の哲学に対する優位性を私は示しているわけではない。演劇は、三次元であるため、我々にとって語ることが不可能なものである。我々の語りは二次元であるとすると、演劇を語ることは演劇を二次元化することであり、演劇の持つ三次元的剰余は失われる。だから、演劇については多くを語れない。語ったとしてもそこには陳腐な哲学しか生まれないだろう。ここで、もう少しだけ、演劇の三次元性について語らしていただこう。先程、小屋という空間ということを言った。現実の世界と薄い膜により隔てられた小屋の内側の三次元性について言及したのであった。ビニールの城の主題の一つであるが、現実世界と小屋の内側を隔てる膜はどういったものであろうか。小屋の内側が三次元性だとすると、小屋の外側の現実性は何次元ということができえるだろうか。これについては未だ、私の中でも答えが出ていないが、このことも念頭に置きながら以下いろいろ考えていきたい。

演劇一般についての論はこのくらいでいいだろう。ここからが本題であり、私の論じたかったことである。また、以下論じることが陳腐な哲学であるということも忘れないで欲しい。
ビニールの城では、腹話術の人形が重要な位置を占める。人と人の関りを考えることでさえ困難であるというのに、そこに、人形と人の関係まで考える必要があるというのだ。劇中で人形は遠くはなれたところから来たとも言われている。つまり、人間を精神として捉えるとそれに対して人形という物質は遠く離れていると解釈できる。そして、腹話術士というのは人形に精神を吹き込むことができる。主人公朝顔は人形の言葉は自分の腹の中からでたものであることを知りつつも、人形が実際に話していると考えており、人形と喧嘩をしたりすることもあったそうである。朝顔はこの人形とビニ本の中の女(一度も開けていない)としかかかわりを持つことが出来ない。朝顔は人とナマの関係を築くことが出来ないのだ。
ここで、陳腐な哲学を繰り返そう。人は他者を通して自己を措定する。自己は自己だけで自己となることはできない。間主観だとか、類的存在だとか様々に述べられているが、私は、自分というイメージは他者が自分をどうとらえるかをイメージして、自己に再帰させることであると考えている。中世キリスト教圏においては、その他者とは神であった。しかし、神が死んだ現在その神の地位には何もない。根源的欠如がそこに逆説的に君臨している。神は死んだからこそ、人は常に神を探し続けねばならない。後者の神は自分の依拠する他者とかいうイメージで捉えてもらうといい。結局、我々は自己の同一性を安定化させるために常に他者と関係性を持つ必要性がある。しかし、その個々の他者は所詮神ではない。自己の安定性を全面的に保障してくれる存在ではないので、他者とのかかわりには必然的に困難さもあるということである。
以上から、他者は自己であり同時に自己でないということが導かれる。したがって、朝顔は自分の人形夕顔を自己でありつつ自己でないものとして受け入れた。(普通人形は自己でないものである。)そうすることで、人形は朝顔にとって精神を持つ者となった。
次に、ビニ本の中の女についてである。朝顔ビニ本の中の女としか関係を持つことがず、なまの女と関わることが出来ないと言う。なぜ、ビニ本の中の女や人形と関係を持つことが出来て、実際の女と関係を持つことができないのか。人形は先ほど述べた通り、自己であり自己でないものであった。しかし、実際にはただの物質であるので自己でないものである。一方、朝顔からすると、自分とは別の人だという意味で自己でないものである。しかし、人形の疑似的精神は朝顔に帰属するものであるので、自己でないものとみなしている自己と朝顔的にはそうなる。ビニ本の中の女はどこかに確かに存在している。そういった意味では他者である。他者という存在は自己を脅かす。他者は自己の同一性を安定化させると同時に、自己の知らない世界への道へ常に誘い続ける存在でもあるからだ。他者が自己に襲い掛かってくるということだ。したがって、自己を防衛する、それが自己と他者の間に存在する被膜であり、ビニールだったのだ。ビニールに覆われているかぎり、他者性は襲ってこない。即ち、自己化できるのだ。結局朝顔ビニ本も自己の世界の範疇に収めこんだ。そういった意味で、ビニ本朝顔にとって、他者とみなしてはいるが実は自己の内であると説明できる。
人は他者を自己かつ自己でないものとして扱うと先程は述べたが、朝顔の場合どこまでいっても人形もビニ本も自己の中で完結したものでしかなかったのだ。
普通の人の場合、他者に出会ってその中に溺れることはない。それは、他者と想像的関係を持ちつつも、一歩ひいてその構造を象徴的に考えることができるという能力を持つからである。言い換えると、自在に他者との間の膜を取り払ったり、そこに膜を置いたりできるのだ。それをなまの関係というのか私にはわからないが、部分的には他者と想像的ななまの関係を気づくことが出来る。この他者に対する両義性が自己でありつつじこでないということの意味である。

以上、ビニールの城を見て私なりに今考察できることを述べたが、それを全てひっくり返そうと思う。
冒頭でも述べた通り、私の述べたことは全て演劇の微分であり、二次元化である。
私は今回の演劇をみて感じたことがある。これを伝えるためにこんなにも長々と語ってきたのだ。
私は普段から今の出たような自己でありつつ自己でないとかそんな空論を二次元平面の上で考えている。だから、それをビニールの城にあてはめて論じることが出来た。
しかし、微分する際に捨象された剰余の部分、それこそが演劇の本質である。
私は、最近少し傲慢であった。私は上で述べたような考え方で、人と人の関係性について理解できると思い込んでいた。しかし、それは平面的な説明しかできない。この演劇を観て、人と人の関りとは、イメージだとか、想像だとかいう言葉に収まりきらず、もっと偉大なもの崇高なものであるということがわかった。観劇中、今まで構想していた人と人との関係性についての考え方から逸脱するようなものを劇の中に見たような気がして、違和感を持った。その正体をここで完全に説明することはできず、一部分であったとしてもなかなか説明することが出来ないために、今回の論考はここで終わるが、最後にもう一度言うが、演劇という三次元空間のなかには、二次元のなかでは描くことの出来ないような人と人との関係性が描かれている。
(また、小説や漫画など平面に書かれた物語について、今回は意図的に議論を避けたが、小説・漫画は何次元かなどという話は次の機会に譲ることとする。)